昔からよく、「あんまり悩みが無さそうだよね」とか、「毎日楽しそうでいいよね」とか言われる。
確かに昔から基本的に毎日はわりと楽しい。少なくとも昔から悩み事は少ない。放っておくとすぐ脳天気な顔つきになる。プロフェッショナルファームに居た20代後半や事業会社の管理職であった30代前半は、オフィスの空気を壊さないよう、基本的に少し表情を堅めにして日々過ごすようにしてきたくらいである。
それでも「地」というものはでるもので、ある会社では「ランチタイムとはいえOLちゃんのように楽しそうに振る舞わないで下さい」と、取締役から定期評価時に注意を受けたこともある。ほぼ小学生並である。
多分それはあんまり辛いことを覚えていないから、ということもあると思う。30何年も生きているのだから、それなりに辛いこともあったはずなのだが、基本的に過去の辛い思い出はほとんど記憶に残っていない。思い出したのは、高校のサッカー部の時の100本ダッシュとか、インド1ヶ月1人旅で3日目にカネを巻き上げられ腹も壊して帰りたくなったこととか。実にしょーもないものばかりだ。で、覚えているのは楽しい思い出とか、幸せなシーンだけである。嗚呼、何たる薄っぺらい人間であることか!
で、そんな僕の感覚にピッタリ来る言葉を見つけた。萩原朔太郎先生である。
幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、
不幸人とは、それの反対を記憶している人々である
「絶望の逃走」萩原朔太郎
うんうん、そうそう。そうだよな。そんな気がするよ、朔太郎。自分の気持ちはとても大事なのだ。
僕も会社を立ち上げる前後くらい、少し不安な日々があったけど、その時は毎日1日の終わりに「今日起こった3つのいいコト」を声に出して数えていた。探してみれば些細なことでもいいことはあるもので、「ホームに来たら電車がドンぴしゃで来た」、とか、「こんなお菓子をもらった」とか、そんなのも加えながら無理矢理3つ数えていたら、けっこう幸せになってきたものだ。
うーむ。こう文章にしてみると、非常にマヌケな感じである。
まあ、けど、1人1人の幸福感って、相対的なものにすべきでなく、本質的には本人の中で絶対的なものだと思うから、こんなものでいいのかな、とも思っている。